今回の動画
参政党の神谷代表が、なぜ靖国神社に参拝するのかという話の中で、大東亜戦争に至るまでの歴史について話していました。(2025年4月29日の演説動画です)
支那事変から大東亜戦争に入ったという歴史を自分で調べ、再確認できたことをまとめています。
学べた歴史観
日中戦争に至る流れは、次のように整理するとかなり見通しがよくなります。
日中戦争(支那事変)に至る流れ
一言でいうと、日中戦争は、
満州事変で日本が中国大陸に深く入り込み、華北にも影響力を広げ、中国側の抗日意識が高まり、西安事件で蒋介石が抗日へ転じ、盧溝橋事件・通州事件・上海事変を経て、全面戦争化した
という流れです。
1. 満州事変:日本が満州を押さえる
1931年9月18日、満州事変が起きます。
日本の関東軍が柳条湖事件をきっかけに軍事行動を開始し、満州を制圧していきました。
その後、1932年に満州国が建国されます。
ここで中国側から見ると、
「日本は中国の領土を切り取って、傀儡国家を作った」
という受け止めになります。
日本側から見ると、
「満州は日本の生命線であり、対ソ連防衛や資源確保のために必要」
という認識でした。
この時点で、日中関係はかなり悪化します。
2. 国際連盟脱退:日本が国際的に孤立し始める
満州国をめぐって、国際連盟のリットン調査団は、日本の主張を全面的には認めませんでした。
その結果、日本は 1933年に国際連盟を脱退します。
ここから日本は、英米中心の国際秩序から距離を置き、
「日本独自の東アジア秩序を作る」
方向へ進んでいきます。
これが後の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」につながる発想です。
3. 華北分離工作:中国本土への圧力が強まる
満州を押さえた後、日本はさらに 華北、つまり北京・天津周辺にも影響力を広げようとします。
この動きが 華北分離工作 です。
簡単に言えば、
中国国民政府の支配から華北を切り離し、日本の影響下に置こうとする動き
です。
通州事件の舞台になる 冀東防共自治政府 も、この流れの中で作られた親日的な地方政権でした。
ここで中国側の反発はさらに強まります。
4. 蒋介石は当初「反共優先」だった
この時期の蒋介石は、最初から日本との全面戦争を望んでいたわけではありません。
蒋介石の基本方針は、
「まず中国共産党を倒す。その後で日本に対応する」
でした。
つまり、蒋介石にとって最大の敵は、当初は日本よりも 毛沢東の共産党 だったわけです。
5. 西安事件:蒋介石が抗日へ転換させられる
大きな転換点が 1936年12月の西安事件 です。
張学良らが蒋介石を拘束し、
「共産党と戦っている場合ではない。日本に対抗するため、国共合作をせよ」
と迫りました。
この事件の結果、蒋介石は釈放され、国民党と共産党は抗日統一戦線へ向かいます。ブリタニカも、西安事件は蒋介石の釈放と第二次国共合作につながった事件として説明しています。
ここで、中国側は、
国民党+共産党で日本に対抗する
という構図に近づきます。
6. 盧溝橋事件:局地衝突が始まる
1937年7月7日、盧溝橋事件が起きます。
北京郊外の盧溝橋付近で、日本軍と中国軍が衝突しました。ブリタニカでは、日本軍が演習中に兵士捜索のため宛平城への立ち入りを求め、中国側が拒否し、銃撃が始まったと説明されています。
当初は、局地的な衝突として収める可能性もありました。
しかし、すでに日中双方の不信感は非常に強く、現地軍・政府・世論が絡み合って、収拾が難しくなっていきます。
7. 通州事件:日本国内の対中感情が激化
1937年7月29日、通州事件が起きます。
日本側から見ると、これは非常に衝撃的でした。
通州にいた日本人・朝鮮人居留民が多数殺害され、日本国内の対中感情が一気に悪化します。
これにより、
「中国側とは妥協できない」
「徹底的に戦うべきだ」
という空気が強まります。
ただし、背景には華北分離工作や冀東防共自治政府への反発もありました。
8. 第二次上海事変:戦争が華北から華中へ拡大
1937年8月、第二次上海事変が起きます。
ここが非常に重要です。
盧溝橋事件は北京周辺、つまり華北の衝突でした。
しかし上海事変によって、戦火は一気に 上海・南京方面の華中 へ広がります。
これで日中の衝突は、もはや局地戦ではなくなります。
9. 「支那事変」と呼称:事実上の全面戦争へ
日本政府は、これを正式な「戦争」とは呼ばず、支那事変と呼びました。
国立公文書館の解説でも、1937年9月2日に「支那事変」と呼称すると発表し、日中は全面戦争状態に突入したと説明されています。
なぜ「戦争」ではなく「事変」と呼んだのか。
理由は、正式な戦争とすると、国際法上・外交上・貿易上の制約が出るためです。
しかし実態としては、完全に大規模戦争でした。
10. 南京攻略後、和平の可能性があった
ここも重要です。
1937年末、日本軍が南京を攻略した前後、ドイツ仲介による トラウトマン和平工作 がありました。
外務省資料によれば、1937年11月上旬、広田外相がドイツに和平斡旋を依頼し、トラウトマン大使が中国側の意向を打診しました。中国側はいったん拒否しましたが、その後、戦局が日本に有利になると、蒋介石は11月に拒絶した和平条件を受諾すると回答したとされています。
つまり、日中戦争はこの時点で 終わらせられる可能性がゼロではなかった のです。
11. 近衛声明:「国民政府を対手とせず」
しかし、1938年1月16日、近衛文麿内閣は、
「爾後、国民政府を対手とせず」
という声明を出します。
これは、
蒋介石の国民政府を、今後の交渉相手にしない
という意味です。
外務省資料では、中国側の回答を日本側が「遷延策」と見なし、交渉打ち切りを決めて、この声明を出した流れが説明されています。
また、外務省の別資料では、1938年1月11日の御前会議で「支那事変処理根本方針」が決まり、国民政府が講和に応じない場合は、以後は同政府を相手とする事変解決に期待せず、新中央政権の成立を助ける方針が定められたと説明されています。
ここで、日本は蒋介石政権との和平ルートを自らかなり狭めました。
12. 戦争が長期化する
その後、日本は蒋介石政権を倒す、または屈服させようとします。
しかし蒋介石は重慶へ移り、抗戦を継続します。
一方で、中国共産党は抗日戦争の中で勢力を伸ばしていきます。
国民党は日本軍との正面戦争で消耗し、共産党は農村部で勢力を拡大していきました。
さらに、英米やソ連なども中国を支援し、日本は国際的に追い込まれていきます。
やがて日本は、
中国戦争が終わらない
→ アメリカの制裁が強まる
→ 石油・資源問題が深刻化する
→ 南方進出へ向かう
→ 対米英戦争へ進む
という袋小路に入っていきます。
年表で整理
| 年月 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1931年9月 | 満州事変 | 日本が満州へ軍事進出 |
| 1932年3月 | 満州国建国 | 中国側の反日感情が強まる |
| 1933年 | 日本、国際連盟脱退 | 国際的孤立が進む |
| 1935年前後 | 華北分離工作 | 日本が華北へ影響力拡大 |
| 1936年12月 | 西安事件 | 蒋介石が抗日・国共合作へ転換 |
| 1937年7月7日 | 盧溝橋事件 | 日中の軍事衝突が始まる |
| 1937年7月29日 | 通州事件 | 日本国内の対中感情が激化 |
| 1937年8月 | 第二次上海事変 | 戦争が華北から華中へ拡大 |
| 1937年9月2日 | 「支那事変」と呼称 | 全面戦争状態に入る |
| 1937年12月 | 南京攻略・和平工作 | 講和の可能性があった |
| 1938年1月16日 | 近衛声明 | 蒋介石政権との和平ルートが狭まる |
| 以後 | 長期戦化 | 日中戦争が泥沼化 |
図式化すると
かなり簡単に言えば、こうです。
日本の満州支配
↓
華北への影響力拡大
↓
中国側の抗日感情の高まり
↓
西安事件で国共合作へ
↓
盧溝橋事件で軍事衝突
↓
通州事件で日本世論が硬化
↓
上海事変で全面戦争化
↓
トラウトマン和平工作の失敗
↓
近衛声明で蒋介石政権を交渉相手から外す
↓
日中戦争の長期化
↓
対米英戦争への道
重要なポイント
日中戦争は、単に 「盧溝橋事件で始まった」 だけではありません。
その前に、
- 満州事変
- 満州国建国
- 国際連盟脱退
- 華北分離工作
- 中国国内の抗日ナショナリズム
- 西安事件による蒋介石の抗日転換
- 国共合作
- 日本国内の強硬世論
- 現地軍の独走
- 近衛内閣の判断
- 英米ソなど国際勢力の関与
が積み重なっています。
なので、最も大事な見方はこれです。
日中戦争は、1つの事件だけで突然始まったのではなく、満州事変以降の日本の大陸政策、中国側の抗日統一、国際情勢、日本政府・軍部の判断ミスが重なって、止められなくなった戦争です。
